- 田内 志文
- 2010-04-14 (水)
- 小説
9、
森での生活が始まってしばらく経ったころ、ネイル・ハートは海からの帰り道で、傷ついた子猫を拾った。まっ白いその猫は、見れば後ろ脚に怪我をしているようだった。
「だいじょうぶ? 痛くないの?」ネイル・ハートはそっと声をかけると、猫を抱き上げて連れて帰った。
荷物の中には、絆創膏や塗り薬もあった。家を出るときに、どうしても持って出なくてはいけないような気がして持ってきたものの、今まで使う機会のなかったものだ。他にも、定規や糊、はては空のカセットテープまで持ってきていたが、これらはまったく使い道はなかった。
ネイル・ハートは子猫の脚にそっと薬を塗ってやると、その上からていねいに絆創膏を貼った。猫は薬が染みたのか体をこわばらせたが、しばらくするとネイル・ハートの顔を見上げて、短く、嬉しそうに鳴いた。彼はそれが嬉しくて、子猫の頭をやさしくなでると、猫に「アリス」という名前をつけた。それは彼が、『不思議の国のアリス』をお気に入りだからだった。もっとも、本の中では白いのはウサギだったし、そもそもアリスは白ウサギと出会う少女のほうだったのだが。
アリスはどこにも行くところがないのか、ネイル・ハートが寝る時間になると木の上まで登ってきて、彼の横で丸くなった。ネイル・ハートはアリスの額に軽くキスをすると体をなでてやった。そうするとアリスは幸せそうに喉を鳴らし、腕を十字に組むようにしながら、顔を覆うのだった。
アリスの脚の傷は、なかなかよくならなかった。いつまでも後ろ脚をひょこひょこと引きずるようにしながら歩いた。ネイル・ハートがご飯を探しにいくときも、海に遊びにいくときも、アリスはその後を嬉しそうについてきた。そして、ネイル・ハートが泳いでいる間は波打ち際で波と追いかけっこをし、砂浜に座っているときや、ご飯を食べているときには、その横で行儀よく座ってネイル・ハートの顔を見上げたり、体をすり寄せてきたりした。
ネイル・ハートはなんだか彼女のことが他人とは思えず、ときどき強く抱きしめた。そうすると、ルーパスのことや、アイーダのことが思い出されて、なんだか胸が痛くなった。きっとふたりとも、ネイル・ハートがどこへ行ってしまったのかと、ずいぶん心配しているのかもしれなかった。そう思うと、町に帰りたいような気持ちにもなったが、ベッドに座りながら聞いたふたりの喧嘩や、学校でのことなどを思い出し、彼は首を力強く横に振った。
今、自分はここでそれなりに楽しく、幸せに暮らしているのだから、それでいいじゃないか。彼は何度も、自分にそう言い聞かせた。夜の中に沈んだ海はどんな黒よりも黒く、沖に目を凝らしても、どこまでが海でどこまでが空なのか、分からなかった。ときどき遠くのほうから、近くを通り過ぎる船のくぐもった汽笛が聞こえてきた。ネイル・ハートはそれを聞きながら、どんな船が通っていて、どんな人たちが乗っているのかを想像した。そうすると、なんだかとても淋しくて淋しくてたまらない気持ちになった。彼の目から涙がこぼれた。ネイル・ハートは鼻をすすると、手の甲で涙を拭った。アリスが心配そうに、体をすり寄せながら細い声で鳴いた。
アリスの傷は、どうもそれ以上よくならないらしかった。相変わらず脚を引きずってこそいたものの、特に苦しそうな様子も見せずに、ネイル・ハートと暮らしていた。彼は「だいじょうぶ? 痛くない?」と声をかけながら、よく脚をなでてやった。
ある日、いつものように後ろ脚をなでてやっていると、アリスが怒って彼の手を引っ掻いた。ネイル・ハートは慌てて手を引っ込めると、「こら!」とアリスを叱った。彼が怒るのを初めて見たアリスは、しゅんとして小さくなってしまった。ネイル・ハートは「なにも引っ掻くことはないじゃないか」と、赤くみみず腫れになった自分の手に薬を塗りながらつぶやいた。
そのとき、彼の胸の中で、まるで黒雲が晴れるかのような風が吹いた。
「もしかしたら、みんなこんなつもりでぼくに痛くないのか訊いていたのかもしれない」
彼はそう声に出して言うと、アリスを振り向いた。アリスは相変わらず小さくなったままネイル・ハートの顔を見上げている。彼は「よしよし、もう大丈夫だよ。ごめんね」とアリスを抱き上げると、その頭を優しくなでた。
その夜、枕元で丸くなるアリスを見ながら、ネイル・ハートはなかなか寝付けずにいた。昼間に考えたことが本当かどうか、ずっと考えていたのだ。彼の思うとおりのような気もするし、ただ単にからかわれているだけだったような気もする。だが、もし本当にただ心配してああいうふうに言ってくれていたのだとしたら、今こうして森で暮らしている理由は、なにもない。それどころか、人の優しさを無視して、自分勝手に人を憎んでいたことになってしまう。だとすればみんな、アリスに引っかかれたネイル・ハートがそうだったように、せっかく差し伸べた手を引っ掻かれたような悲しい気分で、今ごろ過ごしているのかもしれない。
だが、どんなに考えても答など出そうになかった。気づけば、どこかで朝の早い鳥たちが挨拶を交わし合っているのが聞こえはじめていた。アリスを起こさないようにそっと木の枝をどかして空を見上げると、もうぼんやりと明るくなりはじめていた。
「いちど、こっそり町に戻ってみよう」ネイル・ハートは胸の中で言った。真実がどうあれ、森の中に閉じこもっていては、本当のことは分かりはしないのだ。
その日、アリスが目を覚ますのを待ってネイル・ハートは荷物をまとめると、森を出ることにした。町を出てから、どれだけ時間が過ぎているのかも分からなかった。彼は、あの日通ってきた細い道に出ると、歩き出した。途中から道はどんどん広くなり、やがて森を出た。うしろから、ひょこひょことアリスがついてきた。ネイル・ハートはなんとか彼女を森に帰そうとしたが、どうしてもついてくるようだと諦めると、肩の上にかつぎ上げた。アリスは嬉しそうにひと声鳴くと、ネイル・ハートの釘に、顔をすり寄せた。
久しぶりに歩く広い道は、楽しかった。よく晴れていて青空が見えたおかげで、歩いていると気持ちがよかった。ネイル・ハートは歌を唄いながら歩き、それに疲れると道ばたに座り込んでひと休みした。
一歩一歩町に近づいているのだと思うと、楽しみな気もしたが、怖いような気もした。町を中心に恐怖心の水たまりが広がっていて、だんだんとその深さが増してゆくように感じられた。どんなに明るい気持ちを保とうとしても、胸の底からもくもくと滲み出てくるようなその恐怖心は、どうしても消えてくれなかった。だが、どこにも行かないのは大きな男や小さな男のすること。釘の刺さった男のことは、自分で確かめなければいけない。ネイル・ハートは両手を握りしめると、一歩、また一歩と町に向けて進んでいった。やがて、辺りが暗くなりはじめるころに、ネイル・ハートは町を見下ろす丘の上に立っていた。町にはぽつりぽつりと灯りがともりはじめている。彼はひとまず腰を降ろしてアリスを肩からおろすと、バックパックの中から帽子を取り出した。
帽子を深々とかぶって釘が見えないようにすると、町に住んでいたころのことが、昨日のことみたいに思い出されて息が詰まるようだった。さっきまでは眼下に広がっているだけだった町の、路地の隅々までが細かく思い出され、かつてそこでなにがあり、どう感じたかが、否応なしに脳裏に浮かんできた。そして、あのママタリ公園で、カナリヤと会った夜のことも。ネイル・ハートは、座り込んで、やはり森へ引き返してしまおうかと考えた。アリスがその横から心配そうに彼の顔を見上げ、励ますように柔らかく澄んだ声で鳴いた。
「やっぱり、行かなくっちゃ」
ネイル・ハートはアリスの頭をなでながら自分に言い聞かせるようにそう言うと、できるだけ町から見えないような道をたどりながら、丘を下っていった。
あの日出ていった町はずれに着くころには、もうすっかり辺りは暗くなっていた。
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