- 田内 志文
- 2010-04-14 (水)
- 小説
1、
東の町に、ルーパス・ハートとアイーダ・ハートという夫婦が住んでいる。
今年で四十歳になるルーパスは、高速道路の料金所で働いている。来る日も来る日も、自分のブースの前に並んだ長い長い車の列を眺めながら、料金を受け取り、釣り銭とレシートを渡しながら日々を送っている。ときどき、妙に気分がやさぐれ、幼いころに家を出て行った父親のことが頭から離れないような日には、ドライバーがちょっと窓口から離れたところに停車しただけで、その窓ガラスを叩き割ってやりたいほどに気が立つ日もある。だが、思いがけずドライバーから「お疲れさま」だとか「ご苦労さま」だとか声をかけられると、とても人なつこい笑顔で「気をつけて」とほほえみ返すのだった。
彼の顔は子供のころの面影をかすかに、だがはっきりそうと分かるように残してはいたが、少しずつ額が広くなってきている。母親に似ていないのだから、たぶん父親似なのだろう。そう思うと、ルーパスの胸は痛む。なにせ、確かめようがないのだ。父の写真は、母がぜんぶ焼き捨ててしまった。眼鏡をはずして鏡を覗きこむと、口元や頬に刻まれた皺が消えてみえるせいで、まるで大学生のころに戻ったような気分になれることもある。
大学生のころ、彼はロックバンドを組んでいた。プロになるつもりではいたが、自分がそうなれないだろうというのも良く分かっていた。だから彼は、バンドのメンバーたちと酒を飲みながら、消費社会に毒された音楽業界に熱い意見をぶちまけてみたり、「このまま俺は生きたい」という子供じみたわがままを、思いつく限りの社会批判に仕立て上げて歌にしてみたりしていた。当時はどちらも本気だったが、今にして思えば、どちらも嘘だった。ただ、今になっても妻のアイーダには、それを認めたがらない。「俺はこのままでは終わらない」と思い続けているうちに、すっかり、そんなことは言っていられない年齢になった。今の彼には、毎日ちゃんと食事が摂ることができるのが、いちばん尊いことのように思えてならない。
バンドマンだったころの彼は、スリムの代名詞といえた。一七○センチの身長の割に体重は五○キロそこそこで、いつでもぴっちりとした黒いジーンズを履いていた。同級生の女の子たちは、その彼の脚をいつも羨ましがった。だが、今となっては、尻はたるみ、皮膚は汚れ、まるでベルトに乗っかるようにして、脇腹の肉が垂れ下がっていた。彼はいつでも着替えるときには、悲しそうにその肉をぶよぶよとつまみながら「そろそろ本当にどうにかしなくちゃなあ」とため息をつくが、結局のところ、なにもしないまま十年が過ぎようとしている。それに、妻のアイーダは、その肉が割と気に入っている。
ルーパスより四つ年下のアイーダは、ごくごく平凡な女だった。学生のころも成績優秀とはいえず、かといって、落ちこぼれでもなかった。中くらいの成績で大学を卒業すると、ある会社で事務職に就いた。それから三年経ち、ルーパスと結婚して寿退社するまで、彼女は結局、自分の会社が厳密にはなにをしているのか、はっきりと分からずじまいだった。それを知ろうという気持ち自体が薄かったのもあったが、二年目以降は、その気持ち自体がなくなってしまったのだ。
小柄な彼女は、家庭に入って家事をこなし始めると、ますます小柄に見えた。初めは、愛するルーパスとようやく一緒になれた歓びのおかげで、希望と愛情に燃えて家事をすることができたが、やがて、愛し愛される日々が当たり前になりはじめたある春の午後、彼女の胸に「愛って本当にこんなものなのかしら」という疑問が、ぽつりと浮かんだ。それは、まっ白い紙の上に落とされた小さなインクの染みのようなものだったが、いちどそこに「染みがある」と思うと、否応なしに目が行ってしまった。染みは毎日毎日すこしずつ大きくなり、やがて、元の紙が本当に白かったのかすら、彼女には分からなくなった。愛への疑惑は、過去に彼女が体験した恋愛をすべて引き連れて、どこかへ連れ去ろうとしていた。彼女はもう、自分が本当の愛を知らないような気すらした。それはまるで「嘘」という項のかかった、括弧のかけ算のようなものだった。
嘘(愛・愛・愛・愛)=4嘘愛。
風呂上がり、鏡に映った自分の姿を見て、彼女は毎晩のように絶望する。自分はこんなにもまだ満たされない。結婚生活とは、あの日教会で身にまとった純白のウェディング・ドレスのように、染みひとつないまっ白い清らかなものであったはず。なのに、そんなものはたった三年で消え失せてしまい、今となっては、結婚というものにあんなに無垢な憧れを寄せていた自分を、馬鹿馬鹿しくすら思えてくる。その生活自体が彼女には苦痛——鋭い痛み——だったし、また、結婚という現実を受け止められない自分もまた、苦痛——鈍痛——だった。かつては愛の巣だったはずの家は、今は鳥かごででもあるかのように思えてしかたがない。昔は、ルーパスが夜勤になると、朝方まで眠い目をこすりながら起きていた。だが今は、朝方にルーパスが階段を上ってくる音で目を覚まされ、眠い目をこすりながら「もうちょっと静かに入って来られないの?」と文句を言うようになった。
だが、ふたりともお互いに思いやりを持っていなかったわけではない。その思いやりを行動に移す前に、日々のストレスややるせなさが勝ってしまうのだ。
ふたりはここ数年、よく言い争いをしてきた。お互い本当は悪くないのを胸の底で知っていた彼らは、無意識に、「どうしようもない部分を責める」という最悪の道を選んでいた。とにかく、誰かに当たりたかったのだ。アイーダは主に、ルーパスの仕事が時間的に不安定であることや、収入が少ないことや、隣の奥さんが楽しそうに暮らしていることなどを引き合いに出して、ルーパスを責めた。そしてルーパスは、アイーダが彼の役割を理解していないことで、彼女を責めた。
「僕はお金を稼ぐために、昼も夜もごっちゃにして働いてるんだよ、アイーダ」彼はいつでも、興奮して彼を責めようとするアイーダの手を取りながらこう言った。「僕だって、好きに生きてるわけじゃない。君と同じなんだよ。だから、せめて君は理解してくれなくちゃ」
だが、そんな言い争いの日々も、ここ十ヶ月は影を潜めている。
「男の子だったらデイビッド、女の子だったらアイリーンと名付けよう」
ゆったりとソファに身をゆだねるように座るアイーダの、大きな腹や頭をなでながら、ルーパスは毎晩のようにそう言う。
アイーダが妊娠し、やがてすこしずつ母親の体になってくるにつれて、ふたりは、それまでに味わったことのないような気持ちになった。初めは、これまでどんなに望んでもできなかった子供が産まれることへの興奮。そして、その興奮が落ち着いてからは、不安と期待の入り交じった落ち着かなさを感じながら、「自分の本当の味方は、この人なのだ」と、自分たちが夫婦というひとつの生き物であることに歓びを覚えるようになった。
初めのうち、アイーダはひどいつわりが続く毎日に不安になり、ルーパスに当たり散らすこともあった。だが、ルーパスは、当たられれば当たられるほど「僕はこの女の夫なのだ」という自信が湧いた。アイーダは安心して当たりながら、結婚してから初めて夫から感じる男らしさを心の底から誇らしく思い、ずいぶん久しぶりに全身で安心した。ルーパスは、「ああ、僕は彼女の言うように、彼女を大事にしてこなかったのかもしれない」と胸の中で認めた。アイーダは「ああ、この人はわたしの生活を守るために仕事に出かけ、わたしを守るために帰ってくるんだわ」と、すんなりと認めた。つわりが終わるころには、もう、彼女は夫に当たることをやめ、素直に不安を打ち明けるようになっていた。ルーパスはそんな彼女の頭をなでながら「男の子だったらデイビッド、女の子だったらアイリーンと名付けよう」と、大きな腹や頭をなでるのだった。アイーダは幸せそうに瞳を閉じると、頭をなでる彼の手の邪魔にならないよう、そっとうなずいてみせた。
だが、生まれてきた男の赤ん坊は、デイビッドともアイリーンとも名付けられなかった。それは、赤ん坊の額に大きな釘が一本刺さっていたからだ。ルーパスの想い描いてきたデイビッドもしくはアイリーンの額には、そんなものは刺さっていなかったのだ。医者の取り上げたその赤ん坊を見ると、出産で弱っていたアイーダは「ああ……」とうめくように言ったまま気を失ってしまった。ルーパスは、これはいったいどういうことかと医者に意見を求めたが、医者も、なにが起こったのか、いったいなぜ釘が刺さっているのか、どうしても分からなかった。
赤ん坊のベッドには、なぜか名札がついていなかった。確かに、釘の刺さった赤ん坊など他にいるわけもなく、一目で彼だと分かったのだが、名札のケースが空になっているそのベッドを見るたびに、夫婦は悲しくてたまらない気持ちになった。その夜、仕事を終えた担当看護婦のアニーは白衣からジーンズに履き替えながら、ポケットの中に「アイーダ・ハート」と書かれた札を見つけ、そういえば名札をつけるように頼まれていたのを思い出したが、翌日にはすっかり忘れてしまっていた。
他の病室にいる両親たちは、みんな幸せそうに生まれたばかりの我が子を胸に抱き、絵に描いたような美しい夫婦に見える。だが自分たちは、「いったいなぜこんなことになってしまったのだろう」と、胸を痛めることしかできずにいる。そのコントラストは否応なくふたりにのしかかり、余計に惨めな気持ちにさせた。
退院して初めての夜、ようやく戻ってきた我が家のリビング・ルームで、デイビッドもしくはアイリーンのためのベッドに横たわる赤ん坊をうつろな瞳で眺めながら、つぶやくようにルーパスが言った。
「この子の名前は、ネイル(釘)にしよう……」
アイーダは、その夫の横顔を上目づかいで見つめながら、申し訳なさそうな表情を浮かべ、無言のまま身じろぎひとつしなかった。
こうして、ネイル・ハートは生まれた。
釘が刺さっているのにも、気づかないままで。
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