木彫りのチャック

  • 田内 志文
  • 2010-03-24 (水)
  • 小説

9、

 翌朝、ノリスがリビングに入って行くと、母親は明らかに不機嫌そうな様子でテーブルに座っていた。引っ越しの件で、旗色が悪いのだ。それは主に経済的な理由で、彼女にだってもちろんそれくらいのことは分かっている。

 しかし、いくら経済的な不安があるとはいえ、やってしまえば何とかなるかもしれないではないか。彼女はそう考える。すると、リスクを背負おうとしない夫はどこか頼りなくも思えてくる。なぜあの人は「そうか、それじゃあふたりで頑張ってみよう。苦労をかけるかもしれないけど、いいかい?」と、ひとこと言ってくれないのだろう。すると、なぜそんな男を伴侶として選び、一生添い遂げようなどと馬鹿なことを考えてしまったのか、自分が情けなくてたまらなくなってくるのである。まるで、よく澄んだ水の中にぽとりと一滴たれたインクが、またたく間に水をそっくり濁してしまったかのような気分だった。あの男は自分のことなど愛していないから、こんな片田舎に閉じ込めておくのではないか。「ああ、わたしが馬鹿だったんだわ……」今朝の彼女は、ずっとその言葉をぐるぐると頭の中に泳がせている。

 ノリスはおずおずと上目遣いで母親の姿を見つめながら、できるだけ音を立てないようにテーブルについた。母親は顔を上げようともせず、ひっきりなしに右手の人差し指でテーブルクロスを引っ掻いている。その音だけが静かなリビングルームに響いている。ノリスはただじっと黙ったまま母親が気づいてくれるのを待っていたが、やがて、その音がどうしても耐えられないような気持ちになってきた。まるで小さな昆虫が耳の穴から入り込んできて、頭の中をもぞもぞと動き回っているような気分なのだ。

「何か話さなくちゃ……何か話さなくちゃ……」ノリスは焦った。だが、何を話せばいいのかさっぱり分からなかった。母親に楽しい気分になってほしい。だから、何か楽しい話をしなくてはいけない……。

「あのね、ママ……」ノリスが口を開いた。できるだけ明るく、楽しそうな様子で。「昨日の夜、チャックが動いたのよ。ううん、きっと動いたの。だっこしてたら、チャックの手が動いたんだよ」

 母親はのっそりと顔を上げて、娘の顔を見た。目を輝かせ、口元に笑みを浮かべた楽しそうなノリスの顔を。すると、ノリスの狙いとは裏腹に、彼女の胸の底からどうしようもない苛立ちの黒雲がもくもくと込み上げてきた。

「チャックですって……」彼女がぼそりと言った。「またチャックの話なの、あなた……。もうやめてちょうだい、あんな人形の話なんて……」

 ひとたび人形の名を口にすると、もう自分でもどうにも止めようもないように思われた。自分の暮らしを台無しにした、あの薄汚い木彫りの人形。あの人形さえいなければ、自分は都会に引っ越して楽しい暮らしを送ることができていたかもしれないというのに。彼女の頭に、激流のように血が上る。異変を察して驚いている娘の怯えた顔が、ゆらゆらと揺れて見える。

「やめてちょうだい!」彼女はそう怒鳴ると椅子を蹴倒しながら立ち上がり、どすどすと荒い足音を玄関ホールに響かせながら、娘の部屋を目指した。チャックを──あの人形を処分してしまわなくてはならない。そうすれば、またきっと以前と同じ暮らしに戻れるはずなのだ。彼女は乱暴にドアを開けるとベッドサイドのテーブルに歩み寄り、チャックの腕を荒々しく掴み上げた。

 チャックは突然のことに驚き、何がなんだか分からずされるがままになっていた。母親は思いっきり力を込めて窓を開けると、チャックを掴み上げている腕を大きく振りかぶった。

「ママ、やめてえ! やめてえ!」追いかけてきたノリスが、彼女のスカートにすがりつく。

 しかし彼女は構わず、燃えるような瞳をぎらぎらさせながら、窓の外に広がる森めがけてチャックを投げ捨てたのだった。ノリスの鳴き声が部屋じゅうに響き渡る。母親は「静かにしなさい!」と怒鳴りつけると窓を閉め、ノリスひとりを残して部屋から出て行ってしまった。

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