- 明川 哲也
- 2010-05-07 (金)
- 小説
酔った挙げ句に吐く者がいる。
そうした酔客を初めて見かけた頃、五郎兵衛は自分の目を疑った。
食うだけ食い、飲むだけ飲み、平気でそれを路面にぶちまける。地雷とともに飢餓も蔓延していたカンボジアから来た身には、とうてい考えられないことであった。
エチケット以前の問題だとも思えたし、歴史は繰り返すという意味で感じるところもあった。ローマ帝国が滅亡に向けて峠から転がり始めた時、慢心の果てに貴族がやっていたことを、日本ではビジネスマンがやっていた。
今はその種の客にも五郎兵衛は慣れてしまった。居酒屋は酒とつまみを出せばいいだけの場ではない。もめごとを止めなければいけないこともあるし、だらしない酔客の後始末に追われることもある。
五郎兵衛が日本風の酔っぱらいから顔をそむけていたのは、まだ自分が店をやるとは想像もしていなかった頃で、つまりこの大都市に暮らし始め、なにもかもが新しく見えていた頃の話だ。バブル、という言葉すら当時はなかった。命名とは常に振り返りだなと五郎兵衛は思う。現実に起きていること、状態としてあることに足腰がついていないなんてその渦中ではだれも考えやしない。後にあれは泡でしたと言われるなんて、そこを歩いていたつもりの者たちは自分たちの足裏の感覚を今後どう判断すればいいのか。
もちろん、それを言うならカンボジアも例外ではなく、内戦の二十年を導くことになったシアヌーク王朝時代に、これは怪しいのではないか、本当に根があって繁栄しているのかと都市部の人間のだれが問うたことだろう。同国民の農民たちにジャングルから砲撃されるまで、だれも気付いてはいなかったのだ。
「ゴロちゃんには信じられねえだろうけどさ。金が余って余ってしょうがない時代ってのがあったのよ」
坂本さんはラジオ局の管理職だ。五十を過ぎているのですでに現場を離れている。番組作りは若手に任せ、今はどちらかと言うと金策に走り回っている。「CMのスポット料金、安くなっちまったんだよね。どだい、CMじたいが入らないしさあ」というのが酔う度の口癖で、その反動として「あの頃は黄金時代だったなあ」という言葉がのぼりのように立ち上がる。
口数のすくない五郎兵衛は、厨房であれこれこしらえながら、坂本さんの話に時折目配せをする。陽光を浴びたヤシの葉みたいな笑い方で、愚痴のようにぶつけられる日本語を受け止める。このつまみ屋ではそれが会話のスタイルであることを客は理解している。五郎兵衛から言葉が返ってこなくても、客は皆、五郎兵衛と話をしているのだ。なぜなら五郎兵衛がちゃんと話に耳を傾けているからだ。
「社員以外もさ、出入りの構成作家だってADのバイトだって、みんなタクシー券をもらって帰っていたんだよ。番組終る度に寿司屋に行ってね、やれ、トロだカンパチだ、小肌のシンコだと、そんなことを毎晩やっていて、ちゃんとボーナスも十ヶ月分出た。今とは隔世の感があるよな」
坂本さんは熱燗を手酌でやりながら、つい先日会社更生法の適用を申請した地方FM局の名を出した。
「まったくさあ、どうなっちゃったんだか・・・ラジオ局がつぶれる時代だよ。いったいどうしてこんなことになっちゃったんだろうなあ」
五郎兵衛はスルメイカからワタを抜きながら坂本さんを見る。目が合えば微笑む。しかし同時に脳裏では、五郎兵衛が反感を覚えていた頃の日本の酔っぱらいたちを思い浮かべていた。そして唐突に日本語でこう思った。
きっと、ローマは滅んだのだ。
株価のことなど五郎兵衛にはわからなかった。国力のことも。でも、食材を扱う者としての視線で、なにかが大きく変わったことだけはわかるのだった。
食べたものをもどすようなことこそなかったが、五郎兵衛からすれば坂本さんもまた豪放な客の一人だった。業界人というのだろうか。いつもきらびやかな雰囲気の人たちを従えて坂本さんは飲みに来た。
高そうなスーツを着ている広告代理店の人。笑顔のまぶしい女優さん。勢いにのって喋り続けるタレント。ゴルフの話で盛り上がっているスポンサー。
坂本さんの号令で彼らは一度にたくさんのつまみを注文する。そして大量に残して帰る。半分も食べてあればまだいい方で、すこし箸をつけただけでそのままという皿も毎度何品かあった。
「なんでえ。バカヤロウだなあ、あいつら」
坂本さんたちが帰った後、リフォーム屋の横山さんが口を尖らせる。
「いいんだよ。他人のことは放っておけ。あの人は高給取りなんだから」
そう言いつつも、本屋の大西さんは舐めるようにテーブルを見る。
五郎兵衛はもちろん、残り物を彼らに回すようなことはしない。横山さんも大西さんもそこはプライドがある。食べたければ自分で注文する。高給取りの残した者を彼らに差し出せば、それこそテーブルをひっくり返すであろう。
では、残り物を五郎兵衛が自分のまかない飯にする方法があるかというと、オープンキッチンゆえそれもやりにくい。ここは潔く日本の衛生法にのっとり、たとえ少ししか手がつけられていないものであろうと、その料理は捨てることにしている。痛いほどの餓えに苛まれていた少年時代の自分が今のこの行為を見たら、なんと言うだろうと思いながら。
五郎兵衛はイカワタをアルミホイルに載せ、さっと塩を振り、酒をかけた。店によってはニンニクの薄切りやネギを混ぜるところもあるが、新鮮なワタならこれだけで充分だ。酒が沁み入ったところでホイルを巻き、オーブンに入れる。蒸し焼きにして酒を飛ばす。そしてアツアツのうちに生姜と醤油で食べてもらう。
海産物を大切にする居酒屋ならどこでも定番のメニューだが、イカワタのホイル焼きはこの「五郎兵衛」でも人気だ。むしろ飲んべえはイカ刺よりもこちらを好むようで、一般的に愛されるイカの部位と彼らの嗜好は大きく異なる。
たとえば食事のおかずとしてイカを考えるなら、1位 イカ刺(イカの胴) 2位 ゲソ(イカの足)焼き 3位 イカのエンペラ(耳) 4位 イカワタ ということになろう。ところが酒飲みはこの順位がまったく逆になるのだ。
ちなみに「五郎兵衛」でのだいたいの人気を探ると、4位 イカソーメン 3位 ゲソの辛味炒め 2位 エンペラの天婦羅 1位 イカワタのホイル焼き になる。
お米を食べる時にともに味わうイカ。酒のつまみとして頼りにするイカ。同じ人間であろうと食事なのか酒なのかで好みの順番が変わったりするのだから、人間の嗜好とは実に繊細なものだと五郎兵衛は思う。
もっとも、食べ物商売はそのあたり、人の好き嫌いを微妙に判断していくのが生命線になるのだから、繊細だなあ、不思議だなあと感心ばかりしてはいられない。早い話、来る客の好みがすべてわかれば店は勝利を収めることになる。逆に店主の嗜好を突きつけ、客からすればずれた味、となるとその店は一年ともたない。
今夜、坂本さんはカウンターに一人で座っていたが、待ち合わせをしていたのか、暖簾をくぐって入ってきた若い女性と親しげに言葉を交わすと、隣りに座らせた。
「五郎兵衛、代理店のお嬢さんなんだけどね。マイちゃんていうの」
マイちゃんはぺこりと頭をさげ、「どうも」とつぶやいた。
五郎兵衛も会釈し、再びヤシの葉のような広がる笑顔をみせた。
「こいつは笑顔がいいだろう。日本人じゃねえからな。しかめっつらしてねえんだ」
「どこの方なんですか?」
「元はカンボジア難民。えらい苦労したんだ」
はー、とマイちゃんは息を吐き、何度かわかったようにうなずいてみせた。
五郎兵衛はオーブンからホイルを出した。なかを確認しなくても一番おいしい頃合だということがわかる。角皿にホイルを置き、すこしだけ割いて湯気を出す。それを坂本さんんとマイちゃんの間にそっと差し出す。
「おー、きた。イカワタ。これがうまいんだよなあ」
なになに? と興味深げに見守るマイちゃんの前で坂本さんはホイルを開け、蒸されたワタを箸ですくった。生姜醤油につける前にそのまま口に運ぶ。しばし沈黙があり、坂本さんはアハハと笑った。
「匂いといいコクといい・・・やっぱりうまいや。仕入れがいいんだな、五郎兵衛」
五郎兵衛もにこやかな顔でひとつうなずく。
その坂本さんを横目で見ながら、マイちゃんも箸を出した。ほんのすこしを箸先ですくい、どうもすこしびくつきながら舌先に運んだ。とたんに二十四、五才に見えるこの女性の顔が曇った。そっと箸を置き、「ごめんなさい」とつぶやく。
「これ、なんです?」
その反応を見て、坂本さんも顔色が変わった。
「なんだよ? なんですって」
「だから、材料。これ、なんです?」
「イカワタなんだから、イカのはらわたに決まってんじゃねえか」
うわーっ、とマイちゃんの顔が歪んだ。
「私、そういうのだめなんです。ゲテモノ、ちょっと勘弁」
坂本さんがむっとした顔になった。五郎兵衛と目があった。
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